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中唐
皇統の乱れで繁栄にかげりを見せたものの、玄宗以後5代にわたる時期は、唐朝の中興期ともいえ、西域方面にも版図を拡げていた。トルファンの占領期、算高窟壁画の供養音図にはトルファン風俗の人物が現われるが、作風は盛唐期の延長で、チベットの影響はない。
この時期以降の塑像は、仏教塑像を神格化するのでなく、人間界に下ろしている。菩薩は典雅でふくよかな唐代美人である。衣文は極めて自然に表現されている。壁画は、人物描写は細密であるが形式的であり盛唐期に比べ、写実性が減退している。肉体の立体感を表すくまどりは従来の技法と異なるものである。
晩唐
15代武宗は、西方ウイグル族の拾頭を懐柔策で制し、信仰する道教を助け、845年廃仏を断行する。敦煙はトルファンによるおよそ70年間の占領期があったためにその災禍を免れることができた。851年に敦煙出身の武将、張議潮は敦煌からトルファンを駆逐した。
五代
宦官が横行する唐期末期、朱全忠は最後の皇帝哀帝を廃し、自から皇位につき後梁を建国した。以来、中原には後梁とともに後唐、後晋、後漢、後周の五王朝か栄枯盛衰を重ね、やがて宋の太祖が混乱を平定して宋代に入る。その間わずか54年、文化活動では基本的に前代を受け継ぐもので、莫高窟でも新たな石窟造営よりも旧窟の補修に力が注がれた。
西夏・元
中原の北西にあったタングート族が1036年、国を建て大夏と称した。一方、中原では五代の混乱に終止符を打って宋朝が統一国家を形成。宋人は大夏を西夏と呼んだ。西夏は東西申継を利し独自の文字や文化を生んだが、両国とも北方真族に苦しみ、さらに1227年、西北の巨大な力、フビライに率いられた蒙古族が押し寄せ、たちまち全土は呑み込まれた、ここに世界帝国・元が出現した。こうした背景のもと、莫高窟の供養音図などには世界の多種異民族の風俗が反映され、石窟には木造庇や桟道が設けられた。

 

 

 

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